プロローグ  闇の胎動

ネオンが瞬く賑やかな繁華街も、路地へと一歩足を踏み入れれば、そこは静寂と漆黒が支配する闇の世界へと変わる―――。

 そんな路地裏の暗がりを、早足で進む人影があった。
岸崎高校の三年生、下条ちづるである。彼女は、家への帰り道を急いでいた。岸崎銀座街の雑踏を通れば人混みに阻まれて帰るのが
遅くなるように思えたし、そもそも人がいるということは、会いたくない人間に会う可能性だって高い。
だから彼女は路地裏の道を選んだのである。

ビョォォォォォ……

 雑居ビルの間を一陣の風が通り抜ける。その風はちづるに正面から吹きつけ、彼女は一瞬足を止めた。彼女の黒く長い髪が風になびく。
制服の上着があっても、春の夜は少し肌寒かった。
「……おい」
 背後から、しかも近距離からの男の声である。ちづるはぞっとして身の毛がよだつのを感じた。
後ろに人がいた気配なんて、微塵も感じなかった。ちづるは青ざめた表情でゆっくりと後方を振り返る。
彼女の目に映ったのは、岸崎高校の男子の制服を着た人物の姿だった。
「おい、下条」
 彼はもう一度呼びかけた。今度ははっきりと彼女の苗字を呼んだ。ちづるはこぶしを握りしめて、二メートルほど離れたところに立つ人間の
顔を凝視した。暗くて判別はしにくいが、クラスで見た顔だった。彼女は安堵のため息をついた。
「あ…ああ、なんだ。びっくりした」
 三年生のクラスになって日が浅いこともあって、顔は知っていたが名前は思い出せなかった。それくらいぱっとしない男子生徒である。
もちろん、一年二年でも同じクラスになった記憶は無かった。
彼はちづるを見つめ、黙って立っているだけだ。
「き、奇遇ね……その、こんなところで」
 沈黙が怖かったのでちづるは言葉をつないだ。が、相手は言葉を発するどころか表情一つ変えようとしなかった。それがまた不気味である。
「じ、じゃあ、わたし、その……もう行くね」
 彼女はきびすを返す。いくらクラスメイトといっても、やはり場所が場所だけに気味が悪い。なぜ彼はこんな路地裏にいるのだろう?
「おい、待てよ」
 言われてもう一度、彼女は振り返った。
「夜に、こんな暗い人のいない道を通ったら危ないぜ」
 彼はまともなことを言った。
「……そ、そうなのよね」
 彼はヘヘッと笑い声をあげた。
「変わったヤツだな」
 彼は頭をぽりぽりと掻いて、彼女のほうに近寄る。
一瞬身構えたちづるを見て、彼はもう一度笑った。
「バカだなぁ、何も企んでねぇって。俺が送って行ってやるよ」
 ちづるの横に並んで、彼はウインクして見せた。
「え? 何だか悪いわ」
「遠慮すること無いって。どうせ俺暇だし」
 本当は一人で帰りたいのよ、と言いたい気持ちだったが、ちづるはそうはっきりと言える性格ではなかった。
「そう? ……ごめんね」
「いいっていいって」
 そう言うなり、彼は先に歩き始めた。しかたなく、ちづるもあとを追う。
「でも、わたしの家の場所なんて知らないでしょ?」
「ああ。でもこっち方向なんだろ?」
 彼は進行方向を指さす。岸崎町の中心部はだいたい碁盤目状に街が区画整備されているから、はずれではない。
「え? ええまあ、そうよ」
「俺、天才だな」
 ちづるは、妙に警戒してしまった自分が恥ずかしくなった。むしろ、夜道なのだから道連れがいたほうがいいのかもしれない。
……それに、今まであまり意識したことはなかったが、顔も悪くない。
「今日の数学、ぜっんぜんわかんなかったよ俺」
 今度は彼から切り出してきた。
「そうなの? でも、今日の内容は国公立の大学狙うなら覚えておいたほうがいいと思うけどな」
「うげ、俺じゃあ私立でいいや」
 自分の進路にまるで興味がないような様子である。ちづるは彼にいたずらっぽい視線を送った。
「……私立でも、受験科目に数学がある学校ならはずせないんじゃない?」
「ええぇぇッ! そうなのかぁ。……じゃあ勉強しなきゃダメだな、俺」
 ちづるはクスリと笑った。
「明日学校で教えてあげよっか?」
 学校でクラスの男子と楽しそうにしてたら、きっと圭吾のヤツ、ヤキモチ焼くだろうな。……と、ちづるは自分の彼氏のことを思い出した。
秋山圭吾はちづるへの強い愛情を持ってはいるが、偏愛というか、どこか一方的な愛情の示しかたなのである。ちづるが何をしたいのか、
何をしてほしいのか、そういったことにはいっさい無頓着な男なのだ。
学校で他の男子生徒と仲良くしていれば、そんな彼でも少しは自分の彼女の気持ちを気にかけるようになるかもしれない。
……それでもダメなら別の彼氏に乗り換えるいい機会なのかもしれない。
「明日……か」
 ちづるの隣を歩いていた男が、少し感慨深げにつぶやいた。
「ん? どうしたの?」
「アハハ。たいしたことじゃねえよ、気にすんなって。……そんなことより、こっちの道、行かねえか?」
 彼は左側の狭い路地を指さした。
「え?」
「下条は線路より向こう側に行く気なんだろ? まっすぐ行ったらあの開かずの踏切があるじゃん。 下手したら10分くらいつかまることもあるだろ? 
こっちの道から行けば、線路の下の地下道を通る道があるんだ。そしたら待たなくてもいいだろ?」
 ちづるはそんな地下道があるという話は聞いたことがなかった。
でも、確かにいつも使う踏切は、タイミングが悪いとかなり待たされてしまうこになる。
それが短縮できるとなれば、これほどありがたいことはなかった。
「へぇ。詳しいんだね。……わかった」
 男は返答を聞くとすぐに歩き始めた。ちづるは遅れないように彼の横に並んだ。
彼に言われるままに道を進んでいるうちに、彼女はだんだん不安を感じ始めていた。見知らぬ場所だし、倉庫かそういう類の建物が増えてきて、
いよいよ人の気配が無くなってしまったのである。
「本当にこっちであってるの?」
「ああ、間違いないって、ここ曲がったらすぐだ」
 彼が言った場所を曲がって少し進むと、そこは袋小路になっていた。
「……トンネルなんて無いじゃない」
 隣を振り向くと、彼の姿は無かった。ぎょっとしてあたりを見渡すと、背後に彼の姿があった。
「あれ? おっかしいな」
 彼の口調はおどけたような感じだったが、表情は読み取れなかった。
ちづるはぎこちなく笑った。
「やだ、どこかで道を間違えたんじゃないの?」
「いや。そんなことは無いぜ。トンネルは無かったけど目的地には着いたみたいだ」
「冗談はやめてよ。わたしの家はこんなに寂しいところじゃないわ。だいたい家も何も無いじゃない」
 男はさっきまでの気さくな様子ではなく、会ったときのような無機質な表情に戻っていた。


「……誰が、家まで送ってやるなんて言った?」
 ちづるの笑顔が凍った。
「ど、どういう意味?」
「お前を送ってやるとは言ったが、俺は〝家に〟だなんてひとことも言ってないぜ」
「やだ……。悪い冗談はやめてよ」
 ちづるはあとずさった。袋小路なので、もちろん逃げ道は無い。
助けてもらおうにも、周りには誰もいなかった。人が付近にいる気配すらない。
男が一歩一歩、ちづるのほうに歩みを進める。
「それ以上来ないで! 声をあげるわよ!」
「なぜわざわざこんなトコまでお前を連れてきたと思ってるんだ? 声をあげたきゃあげれば?」
 言われてちづるは気づいた。ここは、高速道路と線路がさほど遠くない位置にあるため、夜でもかなりの騒音がある。
それに、民家が無く人の気配は皆無だ。多少叫んだくらいでは誰も聞きつけてくれないに違いない。
男は上半身の服を脱ぎ捨てた。
「観念するんだな」
 その言葉を合図にしたかのように、突然男の右手は奇妙な歪曲と変形を始めた。ぶよぶよと奇妙に形を変え、徐々にそれは肥大化した。
最終的には長さや大きさが不釣り合いと思えるような状態で安定した。剛毛に覆われた彼の左腕は、まるでゴリラのそれである。
その異様を前にし、ちづるの顔は恐怖に引きつった。目の前にいるのは欲望に目をギラつかせた怪物である。
「へへッ、驚いたみたいだな。今話題のリカントロピーってヤツだよ。ニュースとかで言葉くらいは聞くだろうけど、目にしたのは初めてだろ?
身体がこんな感じに変異するんだぜ」
 男はニヤリと笑い、ゴリラの腕でちづるを容赦なく殴りつけた。彼女は吹き飛び、フェンスに打ちつけられる。
「おっと、少し力が入りすぎたかな?」
 ちづるは身を起こし、荒い息で男をにらみつけた。
「おやおや、こんな反抗的な態度を示したヤツは初めてだな。……まあいい、ゆっくりなぶって、ひぃひぃ言わせてやるぜ。
お前 が命乞いするのが楽しみだ」
 彼女はそんな言葉に動じるふうもなくスッと立つと、両手を大きく広げた。
「我が前にラファエル……」
 彼女の口が静かに言葉を刻む。
「ん? なんだ?」
「我が後ろにガブリエル……」
 彼女の言葉ははっきりとした発音だが、まるで唸るような発音でもある。
「我が馬手(めて)にミカエル……」
「変わった念仏だな」
 男は気にする様子もなくぶんぶんと腕を振り回した。
「我が弓手(ゆんで)にウリエル……」
 ちづるもまた男を気にする様子はなく、集中しているようだ。荒い息もいつの間にか落ち着いた呼吸に戻っている。

「我が周囲には五芒星が燃え、我が頭上には六芒星が輝く!」

 彼女から突如、強い閃光が発せられた。いや、正確には物理的に光ったわけではない。
そう思えるほどの強烈な力が彼女からほとばしったのである。
「う…くそ。な、何だッ」
 光のオーラに包まれた女を前に、男は後ずさりした。
「アテ・マルクト・ヴェゲヴラー・ヴェゲドラー……」
 彼女はそっと左手を前にかざした。
「く、このアマぁッ!」
「ルオーラム・エイメンッ!」
 彼女の詠唱とともに左手から力がほとばしった。今度は男が吹き飛ばされる番だった。強烈な衝撃波を受け、
男は数メートル吹き飛ばされてゴミの山へと突っ込む。
「……っきしょう! 何だってんだ」
 口元から血を流しながら、男はよろよろとゴミの山から這い出る。
「あなたは無知であることを知る必要がある。あなたは決して特別な存在ではない。あなたが知らないだけで、ギフトを持つ人間は多いわ」
 ちづるは左手を下ろした。
「ギフトは人を傷つけたり自分の欲望を満たすための手段じゃない。私はこれ以上あなたを傷つけるつもりはありません。
私を信じ、私の手を取るならあなたには新たな道が開かれます。さあ……」

「俺は認めねぇ、認めねぇぞぉぉぉぉぉぉッ!」

凶暴な攻撃性を剥き出しにして、男はちづるに飛びかかった。
「ルオーラム・エイメンッ!」
 男は目に見えない力によって弾き返される。
「……理解しなさい。パワーではフォースには勝てないわ。もうやめて!」
「くそぉ」
 口の中に溜まった血をベッと吐き捨てる。
男の視線が、一瞬、その吐き捨てた血の上で止まった。
彼はため息をついた。
「……わかったよ、降参だ」
 彼は怪物化していない右手を差し出しながらちづるのほうへと歩み寄った。
「賢明な判断です」
 彼女もそれに応じるように右手を差し出した。男はちづるとしっかりと力強い握手を交わす。そう、女の力では引き離せないほどの力で。
男は嫌らしくニヤリと笑う。
「!」
 彼の目に危険な光を感じ取ったちづるは、自由な左手を彼に突きつけた。
「俺は力が強いうえに頭もいいんだぜぇ!」
「ルオーラム──きゃッ!」
 男は口の中に溜まった血を彼女の目をめがけて吐きかけた。握手をしている距離だから、目に命中させるなんて造作もないことである。
ちづるは相手の胸に押し当てていた左手を反射的に、血を吹きかけられた目元に運んだ。
「隙だらけだぜッ!」
 握手をしたままがっしりとロックしている右手を強引に引きつけ、体勢を崩して前のめりになった彼女に、男は目一杯の力を込めた怪物の手で
ボディブローをかました。彼女の右脇腹をえぐった拳が彼女の肋骨をいくつかへし折った。
「腕もいっとけ!」
 剛毛に覆われた巨大な腕から放たれるチョップが、握手状態でロックされた女の腕にギロチンのように振り下ろされる。
鈍い音とともに、女の悲鳴が上がった。
関節の無い位置で折れ曲がった右腕を押さえて女はのたうち回る。男はすでに手を離していた。もう無抵抗と踏んだのである。
「お前の正体が何なのかは知らねぇが、ツメが甘かったようだな」
 男は勝利者の余裕を顔に湛えていた。

「お楽しみはこれからだぜ」

 激痛で戦意を失い、絶望と恐怖に満たされて動くことすらできず涙を流す女を、男は冷徹な目で見下ろした。




不意に、男は背後に別の女の声を聞いた。

「妙な気配がすると思って来てみたら、やっぱり怪人だ」

「誰だ手前ぇッ!」
 男が振り返った先には、女子高生くらいの背格好の女が立っていた。
シャギーがかったショートカットで、目つきは少し鋭い。
キャミソールにデニムという、今どきの女の子らしい服装である。……腰に、青く丸い宝玉のはまったメカニカルなベルトを巻いていることを除いては、であるが。
それはさながら特撮ヒーローの変身ベルトのようですらある。
「な、なんなんだコイツ!」
 よく見れば、彼女は手首と足首にも宝玉のはまったメカニカルなベルトを巻いていた。
もちろんサイズは腰のものよりもかなり小型である。
「へんし~ん、とりゃあ~」
 大仰なポージングのあとに飛び上がると、ベルトの女は一回転してそのまま着地した。
……彼女の姿は、金属装甲に堅められたタイトなバトルスーツで覆われていた。
「正義の味方サイバーレナ、ただいま参上!ってね……えへへ、これお約束」

「今夜は変な夜だなぁ、二人も変なヤツに出くわしちまったぜ。まあ俺自身もそうとう変だがな」
 男は雄叫びをあげると、今度は左腕だけでなく上半身全体が変化をはじめた。
右腕が左腕と同様の大きさになり、頭からは図太いツノが生え、顔は口元が伸びてまるで野牛のようになった。
胸板も厚くなり、その姿はまるでギリシア神話の半人半牛の怪物ミノタウロスのようである。
「最初からフルパワーだぜぇ!」
 ミノタウロスはツノを振りかざして突進攻撃を仕掛けた。
「と~うッ!」
 サイバーレナがしゃがむと、足の宝玉が光った。次の瞬間、彼女は天空へと大跳躍を見せた。
一瞬の出来事に、怪物はバトルスーツの女の行方を見失った。
サイバーレナは重力に身を任せて自由落下すると、巨大なミノタウロスの首を自分の太ももで絡め取り、位置エネルギーを利用した華麗な
ヘッドシザーズを決めた。
巨体が無様な格好で倒れる。
「ガルルルルゥゥッ!」
 何が起こったのか理解していない様子で、それでも隙を見せないように素早く立ち上がったミノタウロスだったが、サイバーレナはすでに
次の行動に移っていた。
彼女の回し蹴りが猛牛の顔に叩き込まれ、間髪おかずにボディブローが三発、そしていつの間にやら怪物の背後にまわった彼女は、
彼の胴部に腕を回していた。

「サイバーマックスパワーッ!」

 彼女の叫びに呼応するかのように、腰ベルトと手足のベルトの宝玉が光を放った。
「うおぉぉぉりゃゃゃぁぁぁぁぁッ」
 小柄なサイバーレナが大柄の怪獣を持ち上げたかと思うと、そのまま彼女は巨獣にバックトゥベリーを決めた。
沈む巨体から飛びすさって着地したサイバーレナは、鋭い目で巨獣を睨みつける。
大きなダメージを受け、素早さと高い攻撃力に圧倒されながらも、巨獣は立ち上がった。
彼の意志でではない。彼の生存本能がそうさせるのだ。
よろよろと立ち上がるミノタウロスを指さし、彼女は高らかに言い放った。
「これでトドメだ!」
 サイバーレナは足の宝玉を光らせて再び地面を蹴ると、今度は上空へではなく、怪物めがけて跳躍した。

「サイバーパーンチッ!」

サイバーレナが身体をひねり、振りかぶられた右の拳の宝玉が煌めいた。
女の全体重と、スーツの重量、足の宝玉の力で得た跳躍力、手の宝玉の力で得たパンチ力、これらすべてが一つになって相手に襲いかかるのだ。
食らえばひとたまりも無いに違いない。
男は死を覚悟した。

ガンッ!

強烈な衝撃が男の頭部を襲った。彼は間違いなく死んだと思った。
耐え難い痛みで彼は声も上げられず、のたうち回ることしかできなかった。
しばらくのたうち回るうちに、彼は少しずつ冷静な思考を取り戻してゆく。
これだけ痛みが続くということは、自分はまだ死んでいない。きっと、直撃を免れ、生き延びたのだ。だが、ずっと倒れたままでは次の一撃を食らう。
やばい、早く起き上がらなくては。
彼の脳裏に別の声がささやいた。
このままヤツにトドメを刺されたほうが楽ではないのか? 起き上がれば起き上がっただけ、ヤツに痛めつけられるのは間違いない。
ならば、このままじっとしていればいいじゃないか。じっとしていればヤツは急所を外さない。楽に殺してくれるに違いない。
だがそんな声を押しのけ、彼の心に再び闘志が沸き起こった。
ここまで一方的にボコボコにされて、俺はこのまま死んでしまっていいのか? 
勝てないとしても、目の前の敵にたったの一撃でもいいから強烈な一撃を叩き込んでやりたい。
このままトドメを刺されてたまるかッ!

「グルルガァァァァァーーッ!」
 男は力を振り絞って立ち上がった。
「あらあら、良希(りょうき)ちゃん、今日も元気ね」
 緊張感の無い、聞き慣れた声が耳に飛び込んでくる。
「もう一度、起こしてみようと思って部屋に来てみたんだけど、えらいわね。良希ちゃん、ちゃーんと自分で起きたのね」
「んあ?」
 見渡すと、そこは良希自身の部屋だった。目の前には朝の光を浴びたエプロン姿の母親がいて、手には弁当の包みが握られている。
 サイバーレナの姿も下条ちづるの姿も見あたらなかった。
夢だったのか?
だが、夢と呼ぶにはあまりにもそれはリアル過ぎた。夢というものは体験しているときには多くの場合現実味を帯びているが、
夢から覚めた瞬間にはすぐに夢の中の体験だったと認識する。だが、今回の出来事は、そんな曖昧な体験ではなかった。
目が覚めた今でもついさっき、本当に起こったことのように感じられるのである。
……それに、高峰良希の頭には、サイバーレナの攻撃による痛みがまだズキズキと尾をひいていた。

夢ではない……。

そう確信しそうになったとき、彼の目にベッドから落ちた布団と、フローリングの床が目に入った。
……彼は痛みの正体を理解した。無駄に高さのあるベットから、月に平均して五度ほどは落下しているから間違いない。
この頭の痛みは フローリングの床が原因だ。
こんなに落下するなら柔らかいマットでも敷けばいいのだが、落下対策にわざわざマットを敷くのも馬鹿らしくて、
いつもこうして痛い思いをするのだ。……それにしても、夢にしてはあまりにもリアル過ぎる夢だった。
彼はまだあきらめきれず、夢でなかった証拠を探すために部屋の中を見渡した。
そして、良希の目は時計で止まった。ハッとなった。
「どうしたの良希ちゃん?」
 しばらく呆然と立ち尽くす良希を見て、母親は首を傾げた。
「ねぇ、良希ちゃん?」
 見れば、良希の手はフルフルと震えはじめている。
「ど、どうしてなんだ……」
 母親が心配そうに良希を見つめる。
「どうしてなんだよ……」
 そして良希は雄叫びをあげた。
「こォのままじゃ遅刻だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
 叫ぶ良希に、オロオロとしながら母親が答える。
「お母さん、何度も起こしたのよ?」
 そんな母親のことはお構いなく、良希は目にもとまらぬ早さで制服に着替え部屋を飛び出した。
階段を駆け下り玄関で運動靴をつっかけて扉の外に停めた自電車に飛び乗る。
「良希ちゃん、お弁当~!」
 母親が二階から弁当箱の包みを放り投げた。良希が受け損ねた場合、弁当がどうなるかとか、そういった細かいことは気にしない母である。
良希が二階を見上げたとき、視界にはすでに降ってくる弁当包みがあった。良希は危うく顔面でそれを受け止めるところだったが、
何とか手を出すことに成功した。
「あ、あぶね~」
「良希ちゃん、気をつけて行ってらっしゃいね~」
「母さんこそもっと気をつけろよなッ!」
 にこやかな笑顔で手を振る母親に毒づきながら、良希は自転車を発進させた。

―――目指すは岸崎高校である。

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