第01話 「リカントロピー」

「やべぇッ! このままじゃ完璧に遅刻ペースだ!」
 ちらりと腕時計を見やった高峰良希は、踏み込むペダルに全体重をかけて全速力で自転車を走らせていた。
「ちょっと危険だけどショートカットコースだな、こりゃあ」
 良希はいつもの通学路を逸れて、岸崎町のメインストリートである岸崎銀座街を通るルートを選んだ。
 いつもの通学路は人通りが少なく走りやすいが、少しばかり遠回りなのだ。
それにくらべ、この繁華街を通るルートは最短だし道が広く平坦なので走りやすい。
 繁華街だから人通りは多いが、朝のこの時間は通勤中の人がほとんどだから、多いと言っても大した量ではない。
それに岸崎銀座街という大それた名前だが、JR岸崎駅の駅前にあるやや大きな商店街という程度の規模であって、
同じ銀座でも東京の銀座とはまるで比較にならない。
 アーケードに入っても、良希は自転車のスピードをまるで落とさなかった。
岸崎駅へ向かう背広や学生服の人がまばらに歩いている程度だから、特に問題は無い。
「これなら間に合いそうだな」
 良希は歩く人々の間を縫うように進み、広い通路をアウト・イン・アウトの要領で極力減速せずに曲がる。
「うげ!」
 ある角を曲がった視界の先に、人山があった。しかも、移動中の人ではなく、何かに群がっているという感じだ。
 だが、今の良希にとって問題なのは、十メートル先の人だかりではない。二メートル前を歩いている二人組の男だ。
「トクさん!」
「のォわッ!」
 キィィィィィィィッ……
 トレンチコートの男の股間をえぐる寸前で自転車は止まる。
「ば、馬鹿ヤロウッ! あぶねぇだろがッ! 公務執行妨害と危険運転致死でしょっぴいてやるぞ、このガキゃあッ!」
 良希が危うく引きかけた50代後半と思える年頃の男が、火の付いていないくわえたたばこが落ちるくらいの勢いで
ユデダコのような真っ赤な顔で良希を怒鳴りつける。
「トクさん落ち着いてください! 今日はこの子を逮捕するためにここにいるんじゃないでしょ?」
 今にも飛びかかりそうな勢いの男を、隣の青年が羽交い締めにして抑える。
「それにこの子には危険運転致死は付かないですよッ」
「黙れ、ヒヨッコがぁッ!」
 良希のかわりに、青年がユデダコにぽかりと殴られた。

 機嫌の収まらないユデダコにビクつきながらも、良希はその背後の人だかりの様子が気になった。
こちらでトレンチコートの男が大声を上げても気にしている人は少ない。
多くの者が、表通りのアーケードから路地裏へと続く通路のほうへ視線を注いでいる。
警察官にテレビクルー、野次馬たち……いるのはそんなメンバーだ。皆が視線を向ける通路は、制服警官とテープで封鎖されているようだ。
 一体何があったんだろうか。
「あらあら、鬼の猪熊徳治(いのくまとくじ)がまるでホントの赤鬼みたいね」
 トレンチコートを着たユデダコに、一人の女性が近づいてきて話しかけた。灰色のスーツを着た女性で、
こんな場所で手にICレコーダーを持っているあたり、マスコミ関係者の匂いがプンプンする。後からカメラマンらしき青年が駆け寄って来たので、
良希のその思いは確信に変わった。
「夕刊ヒノモトのねぇちゃんか」
 トレンチコートの男、猪熊徳治は羽交い締めにしている男を突き飛ばし、自分のコートをぱんぱんとはたいた。
彼の言う『夕刊ヒノモト』というのは、地域密着型の三流タブロイド判新聞である。
「ここで猪熊さんが暴れてくれなかったら、事件現場を見てきた人間の貴重な証言を聞き逃すところだったわ」
「その嗅覚、ねぇちゃんをタブロイドの記者にしとくのは勿体ねぇわな」
 くわえたたばこにオイルライターで火を付けながら言う。口の動きに合わせてたばこがふらふらと揺れた。
「あらそう? 一流新聞にできなくてタブロイドだからこそできることだってあるのよ? でも、猪熊さんに褒められるなんてウレシイわ。」
「……しっかし、残念ながら俺からしゃべれることは何もないぜ。公式発表を待ちな」
「あら、すいぶんと意地悪なのね? でもさっきはヒドくご立腹だったじゃない。あれは?」
「あれはコイツが急に飛び出してくるからだよ」
 徳治が良希のほうにアゴをしゃくってみせる。ベテラン刑事にギロリと睨まれると、良希はビクリとせずにはいられない。
「冷静な猪熊さんがそんなことで取り乱すなんて珍しいわね。ウフフ、こっちのほうが特ダネになるかも」
「バカ言いやがれ! あんな現場見たあとだから俺もつい気が立っちまってよ……」
「……その様子じゃ、今回も相当だったんでしょうね」
 徳治はため息をつく。
「ああ、今回のガイシャはよ、必死に逃げた痕跡があったのさ。町工場が林立する人通りの無い場所から必死に逃げて、逃げて、逃げて、あともう少しすれば人通りのある路地まで出られるというところまで来て、ヤツに殺されちまったんだよ。しかも、今回はその殺され方がまたヒドくて、ほとんど原形をとどめてない。鉄パイプか何かで殴ったとしてもあそこまでヒドくはならんだろう、普通は。それに、今回もやはり直接の死因は──」
「あわわ。もうダメっす、トクさんダメっす」
 横で若手刑事が慌てている。
「あっ、しまった! ねぇちゃんがのせるからつい捜査情報を……」
「ウフフ、毎度ありがとうございまーっす! これだから猪熊さん大スキ!」
 夕刊ヒノモトの女性記者は徳治に抱きついてほっぺたにキスをした。
「けっ、離せ!」
 そう言って、頬を赤らめながらも徳治は抱きつく女を押して引きはがす。
「ひゃん! このドスケベッ!」
 徳治はいきなり女のビンタを食らうハメになった。よく見れば、彼が記者を押し返したその手は、
彼女の胸の豊かな二つのふくらみを鷲づかみにしていたらしい。
「こ、こりゃいかん! 撤収だ!」
「待ってくださいよ~」
 間抜けな格好で走り去っていくベテラン刑事と、それを追う伏見と呼ばれた若手刑事の後ろ姿を見て、女性記者はクスリと笑った。
「面白い情報が出ましたね。例の殺人犯の冷酷さが伝わる記事が今日の夕刊に間に合います」
 カメラマンが言った。
「そうね。ラッキーだったわ」
 ふと、女性記者は自転車にまたがったまま呆然としている男子学生に目を向ける。

 良希はトレンチコートの男が話した捜査情報と、事件現場となった場所に、何か引っかかるものがあった。
……自分は、何か知っているはずだ。この一件に関係があるような気がする。
今朝方に見た夢を思い出そうとしていたが、夢の記憶というのは時間が経つとすぐに霞がかかったようになってしまう。
今朝見た夢もあんなに現実味があったはずなのに、今となっては一年前のことを思い出すように困難になっていた。
でも、良希はそれを思い出さなければいけないような気がしていた。
確か、クラスの女の子と、それから……
「そこのきみ?」
 女の声が耳に届いて、良希は我に返った。目の前に立つ夕刊ヒノモトの女性記者がこちらを見つめていた。
「ん? アッ! しまった!」
 良希は呼びかけられて遅刻しそうなのを思い出したのだった。
腕時計を見ると、今のやりとりですでに五分近くが経過していた。近道をした意味が無くなるほどの大きなロスタイムである。
良希は目の前の人山を自電車に乗ったまま突破するのは不可能とみて、慌てて自転車を降りて手で押して人混みを進んだ。
「急がないと」
「あ、ちょっとまって!」
振り返ると、さっきの女性記者が小走りに駆け寄ってくる。
「いいいいいい急いでるんですけどッ!」
 良希はトイレを我慢する少年のように足踏みをしながら言った。
「後で取材させてほしいから、連絡先を教えてくれない?」
言うよりも早く、メモを取れる体勢づくりをしているあたり、さすが本職である。
「え、ちょ、今時間無いんで」
 その場から離れようとする良希の胸ポケットに、記者は自分の名刺をねじ込んだ。
「じゃあここに連絡ちょうだい、私なら協力できる事があるかもしれないから」
「あわわ、ぼ、ぼく遅刻しそうなんで! さよならッ」
 良希はきびすを返すと自転車を押し、人混みをかき分けて岸崎高校へと続く道を急いだ。
「やべぇぇぇぇぇッ!」

 男子学生の背中を見送る女性記者に、カメラマンが声をかけた。
「川上さん…なぜあんな子に名刺渡したんです?」
 振り返る記者は朝の光で凛々しく、神々しいものがあった。その自信に満ちた顔にカメラマンは一瞬ドキリとした。
思わず一眼レフのファインダーを覗いてシャッターを切ってしまう。
「あ、こら! 広瀬クン、勝手に私を撮らないでよね?」
「す、すみません。つい……」
……あなたがあまりにも美しかったので、とはさすがに言えなかった。
「広瀬クン、あの子のあの表情、見なかった? あれは絶対に事件について何か知っている人間の目よ」
「そういうもんですかね? まあボクは撮影が仕事なんで、そういうニオイを察するのは専門じゃありませんから」
 カメラマンの頭に記者はゲンコツを落とした。
「痛てッ」
「カメラマンがそんなニオイも嗅ぎ分けられずにスクープ写真撮れると思ってるの? これだからいつまでも青二才だって言われるのよ」

 良希は人混みを通り抜けるとすぐさま自転車に飛び乗った。人混みは抜けても少しは人通りがあるわけで、
本来ならば安全面を考慮してそれほどスピードは出すべきでないのだが、良希はお構いなしですっ飛ばした。
まさに全力疾走という言葉がぴったりだった。
岸崎銀座街を抜け、車の少ない道は信号の色もお構い無しに通り抜けた。
「ここを曲がれば正規ルートに戻るぞッ!」
 挽回はできないまでも、最後まであがいてみるつもりだった。
カーブをいかに減速せず、いかに効率のいいラインで曲がるかで時間はまるで変わってくる。
良希は本来の通学路に戻る道に合流するときも、減速をほとんどせずにアウトインアウトの要領で十字路に車体を突っ込ませた。
「うわッ!」
「キャッ!」
 彼は他にも学校への道を急ぐ生徒がいることに対しては無警戒だった。
相手は直進でその十字路を自転車で駆け抜けようとしたために、カーブで切り込んだ良希とはまさにニアミスだった。
良希は相手の女の子の自転車にぶつかる寸前、力いっぱいブレーキを握り、可能な限りハンドルを切った。
このおかげで接触は免れたのだが、良希自身は体勢を崩して自転車から落下し、今度は地面のアスファルトで頭を打つハメになった。
乗り手を失った自電車は横に滑走して電信柱に激突した。
相手の女の子はかなり遅いタイミングで急ブレーキをかける。
彼女は自転車が止まるとスタンドも立てずに自分の自転車を放り出し、良希のもとに駆け寄った。
「ご、ごめんなさい! ……大丈夫ですか? 私が不注意だったから」
 彼女は仰向けになって空を見上げている青年をのぞき込んだ。
そんな彼女の顔を見て、良希はどきりとした。
まず視界に飛び込んできたのは彼女のまん丸な瞳だった。心配そうにのぞき込む幼さを残したその瞳には、吸い込まれてしまうような魅力があった。そして、ふっくらしたりんご色のほっぺと、ほのかに茶色がかったショートカットが、彼女のあどけない可愛さをより一層引き立てている。
仰向けになったまま見とれていた良希の目の前で、彼女の弾力のありそうな唇が動いた。
「あ、大変……」
 彼女は上着のポケットからスッとハンカチを出すと、そっと良希のおでこに押し当てた。しばらくの間、良希はそのままじっとしていた。
そして彼女もまた、ハンカチを押し当てたままじっとしていた。
そうしているうちに、良希はだんだんと今の自分が置かれた状況を把握し始めていた。

 これは恥ずかしいシチュエーションだ……

 良希は今、道の隅で大の字に横たわっているのだ。傍らには可愛らしい女子高生が両膝を地につけて付き添い、
身を乗り出して良希のおでこにハンカチを当てている。なんと異様な光景だろう。
「だだだ、大丈夫だって。このくらい何とも無いさ」
 良希は居ても立ってもいられなくなり、ハンカチを払いのけると体を起こして立ちあがった。
「ハンカチを離しちゃダメです」
 彼女も立ち上がり、再びハンカチをリョウキのおでこに押し当てようとする。面と向かってそれをやられると、余計に恥ずかしい。
「わわわ、よ、よせって!」
 と、良希は真っ赤な顔をして言いながら、ハンカチから守るように手を額に持ってゆく。
「ん? あれ?」

おでこを触った瞬間、手のひらに広がる粘度を帯びた生ぬるい液体の感触……。


 
良希は思わず自分の手のひらを見た。
「なんじゃこりゃ~ッ!」
 手のひらは真っ赤だった。そして、今も額から鼻の横を液体が流れている感触がある。鼻の穴から流れているのではないから、鼻水でないのは間違いない。
というよりも、間違いなくこれは血だ。
見れば先ほどまで額にあった彼女の水色のハンカチも、
今は赤いまだらの入ったハンカチになってしまっいる。
「ね、大丈夫じゃないですよね?」
「そ、そのハンカチ貸して」
「はい、どうぞ」
 良希は彼女からハンカチを受け取ると、そのまま額に押し当てた。
「保健室まで付き添わせてください。岸崎高校の人なんでしょ?」
 彼女は良希の制服を一瞥してから言った。
「そうだけど……いいよ、気持ちだけで。こんなことしてたら君まで遅刻しちゃうよ?」
 言われて、彼女はケータイの文字盤に目をやる。軽い驚きからか、
まん丸の目玉がより一層まん丸になっている。
「ほんとだ、もう時間が無い! ……でも」
 心配そうにこっちを見る彼女に良希は笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。頭は小さな傷でもたくさん血が出るんだ。これくらいの傷で致命傷になったりはしないから」
 その言葉を聞き、彼女も苦笑する。
「でも、頭打ってるんですから保健室の氷室先生に見てもらっておいてくださいね。じゃあ、お言葉に甘えて私は先に行きます」
 彼女が言った氷室先生というのは保健室の養護教諭である氷室冴子のことである。
きびすを返して歩き始めた彼女を、良希は思い出したように呼び止める。
「そうだ、良かったら、クラスと名前、教えておいてくれないかな? 借りたハンカチはちゃんと洗って返したいし」
 洗ったって、血が取れるかどうかは分からない。でも、それなりのお礼はするつもりだった。
でも、そういう言葉が出た実際のところは、彼女のことをもっと知っておきたいと思う好奇心だったのかもしれない。
ハンカチの一つくらい気にしませんからお気遣い無く、と、言われれば終わる会話だ。
しかし彼女は軽快な笑顔で応えた。
「私、一年三組の姫宮しずくっていいます」
 しずくが応えてくれたことが存外うれしく、良希の顔も自然にほころぶ。
「俺は三年二組の高峰良希。危ない目に遭わせてしまってゴメンな」
「私は大丈夫ですよ、ぶつかったわけでもありませんし。
それよりも、高峰センパイは自分のおでこの傷の心配をしてください。……そろそろ私、行きますね」
 しずくは愛らしい笑みを残してその場を去っていった。良希は彼女の歩く後ろ姿をまじまじと見つめ、鼻の下をのばした。
「かわいい子だなぁ……しずくちゃんかぁ。俺のこと、高峰センパイだってよ」
 良希は自分の両肩を抱きしめるように掴んで、キスの口を作った。
不意に、チャイム──予鈴が聞こえた。
「うわ、いけね。俺も早く学校行かないと!」
 慌てて自転車を起こしてペダルに足をかけるが、ペダルにはいっさい抵抗がなかった。見事にチェーンが外れていた。
電柱への衝突の衝撃でこうなったらしい。
「うげ!……ついてねぇ」
 自転車を学校まで押していく決意をしてハンドルを握ったとき、右肘にピリリと痛みを感じた。そこには小さな擦り傷があった。
アザや擦り傷は、きっと体じゅうにたくさんできているに違いない。
とりあえず全身の状態を確認しておこうと下を向いてみたら、 再度おでこからツツーっと血が垂れてきた。
ハンドルを握るためにおでこからハンカチを外していたが、どうやら早計だったらしい。再びハンカチで傷口を押さえる。
「……やっぱ、ついてねぇ」
 良希は再びぼやくと、全身チェックはあきらめて自転車を押して学校に向かうことにした。

 とぼとぼと歩いて彼が学校に着くと、すでに正門は閉ざされ、通用門のみが口を開いていた。
生活指導や挨拶運動の先生ももう職員室に戻ったあとのようだった。彼は通用門をくぐって自転車を駐輪場に止めると、
教室ではなく保健室に直行した。
「氷室センセーいますか?」
 ドアをノックし、声をかける。
「……どうぞ」
 朝だから職員朝礼か何かでいないかと思ったが、氷室冴子の声が帰ってきた。
保健室の氷室先生は絶世の美女だ。美人の保健室の先生なんて、アニメかドラマの中だけの虚構だと考えていた良希のイメージを見事に払拭した女性だったが、言動が辛辣で素っ気なく、目鼻立ちにもツンとした印象があって、人を寄せ付けない印象がある。
氷室は、名の通り『氷』という響きがよく似合う女性だった 。
養護教諭としてそういう雰囲気を持っているのがプラスかマイナスかはともかく、そこがまた男子生徒たちの間で人気だった。
普段から微笑むこともほとんど無い彼女を微笑ませることが、一部の男子生徒たちの間で目標となっているほどだった。
かくいう良希でさえも『氷の微笑』を一度見てみたいものだと思う。
「失礼しまーす」
 事務机に向かって書類とにらめっこをしていた白衣の氷室先生は、目だけでちらりと良希を一瞥すると、吐き捨てるように言った。
「座って」
 彼女の前には丸イスがある。良希は戸惑いながらもそのイスに腰を下ろす。
……沈黙。
「あ……あの、先生」
 か細い声で良希が呼びかけて初めて、冴子は書類から目を離して良希のほうを見た。氷の女は上から下まで、なめ回すように彼のことを見回した。
「ひどい血ね。どうしたの?」
 ややトーンの低い、落ち着いた声だ。その声だけでも良希は身をこわばらせてしまいそうだった。
冴子は良希の返事を待たず、身を乗り出して額を押さえているハンカチをどけさせ、やや前屈みになった姿勢のまま、入念に額を観察している。
ウェーブがかかった彼女の髪からの心地よい香りが、良希の鼻腔を刺激する。
「と、登校途中に自転車で転びました」
 良希は「女の子とぶつかりかけて」という部分は省いた。事故に誰かが関わっているのだと話せば、
相手にも絶対迷惑をかけてしまうことになるかもしれないからだ。
「カーブでハンドルを切り損ねたんです」
 言いながらも、良希は重大な問題に直面していた。
冴子が身を乗り出して額を観察してくれているおかげで、胸元が気になってしかたがないのである。
冴子の白衣の下は、胸元が大胆にカットされた濃紺のワンピースだった。
彼女の胸は豊満で、しかもワンピースの濃紺とのコントラストで映える美しい白色をしていた。
良希はそこから必死で視線を離そうと努力したが、できなかった。
「ねぇ」
「は、はいッ!」
 冴子の軽い呼びかけだったが、どこかトゲのある響きに良希はびくりとし、慌てて視線を逸らした。
「あなた、誰とぶつかったの?」
 どうやら視線に感づいたワケではなかったらしい。……が、変な質問だった。
「え? いえ、アスファルトの地面とですけど」
「本当に? 他に誰もケガしてないの?」
 冴子の質問の意味がよく分からなかったから、良希は怪訝そうな顔を見せた。
良希は一瞬視線を泳がせた。
しずくに迷惑はかけたくなかったが、冴子が何か疑問を感じている以上、不審を持たれるような答え方はできなかった。
「本当ですよ。……だけどその、状況を厳密に言うなら、自転車で急いでいたときに姫宮っていうこの学校の子とぶつかりそうになって、避けたらバランスを崩して転んだんです。姫宮っていう子にはぶつかってませんし、それ以外の子はその場にいませんでしたから、誰にもケガはさせてません」
「……姫宮って、姫宮しずく?」
 冴子の口から、思いがけず姫宮の下の名前が発せられた。
「そうですけど、何か?」
「いえ、いいわ」
 冴子はふうと大きなため息をついた。
「……じゃあ、傷の手当てをしましょう」
 立ち上がると、冴子は棚から消毒液やガーゼを用意し、手際よく良希の頭のケガの手当てをおこなった。
良希は消毒液がしみるだろうと思って身構えたが、しみないタイプの消毒液なのか、全く刺激を感じなかった。
冴子は最後に良希の傷口にきれいなガーゼを当て、テープでそれを止めた。
「はい、おしまい」
 冴子は椅子へと座り直し、脚を組んだ。濃紺のワンピースの短くタイトなスカートから伸びる、すらりとした脚は見るからになまめかしい。
「問診というわけではないけれど、少し質問していいかしら?」
 処置も終わって教室に戻れると思っていただけに意外だった。が、良希には特に断るべき理由がない。
「……別に、かまいませんけど」
 冴子は感情を見せず、口を開いた。
「じゃあ最初の質問ね。最近、よく眠れる?」
 悩む質問ではなかった。
「ええ、よく眠れますよ。夜更かししているわけではなく、よく眠りすぎて今日もこうして遅刻したわけですしね」
 彼女はひとこと「そう」とだけ言い、すぐに次の質問を口にする。
「じゃあ、食事の回数や量は?」
 良希は頬に人差し指を当てた。
「んー、食事として食べるのは三回、おやつと夜食もばっちり食いますけどね。量も多いほうだと思いますよ。お弁当食べてから学食に行くこともありますし。おかげさまで最近は病気にもいっさいかかっていませんよ。……って、あれ? でもこの質問って今回のケガと何の関係があるんです?」
サエコは氷の微笑を浮かべ、一枚の用紙を差し出した。
保健室を利用したときに書かねばならない『保健室利用カード』だ。学年・組・名前・症状などの記入欄がある。
「ケガからの回復には、十分な睡眠と十分な食事が大切だからよ。まあ、聞いた感じではあなたは大丈夫そうだけれど。
……そうそう、たくさん血が出たから驚いたとは思うけど、私がいいって言うまではおでこのガーゼは外さないようにね。
化膿したり雑菌が入ったら大変なんだから」
「わかりました」
 渡された用紙を手早く記入し終えた良希が答える。
「経過観察とガーゼの取り替えが必要だから、私に呼び出されたらすぐに来るようにね。さぁ、そろそろ教室へ戻りなさい」
 良希は丸イスから立ち上がり、ぺこりとお辞儀をしてみせた。
「ありがとうございました」
 彼はそのままきびすを返し、保健室をあとにした。

 血だらけで舞い込んできた男子生徒が保健室から出ていったのを確認し、
冴子は部屋の隅に置いてある自分のポーチの中からケータイを取り出した。
「今日は朝からいろんな事が舞い込んでくるわね」
 冴子は出勤して間もなく緊急の職員召集放送で職員室へと呼び出され、三年の女子生徒が例の連続猟奇殺人被害で死亡したとの報告を受けた。
校長を筆頭とした管理職連中や各学年の主任たちが対応策で会議を始め、それ以外の先生は生徒の不安をあおらぬよう通常通り持ち場に戻り、
冴子が保健室に戻った瞬間に現れたのが彼だ。
冴子はケータイのメール機能を呼び出した。
「……彼は誰もケガをさせていないと言った」
 ケータイを操作しながら彼女は考えを巡らせた。
「あれだけ血をいろんなところにつけていて、誰にもケガをさせていないと言い、本人もケガをしていない。
彼は額をケガしていると思い込んでいたようだけど、傷口なんてどこにもなかった。一応、手当てをしたフリはしたけれど……」
 冴子は姫宮にメールを打った。
『ゴメーン(ー人ー) おなか痛いとかテキトーな理由つけて、保健室にすぐに来て』
送信ボタンを押し、ため息をつく。
「彼の言う、誰にも怪我をさせていないという言葉が真実で彼自身が怪我を負っていたとすれば、
この短時間で傷口が無くなるというのは超人的な治癒能力だ。睡眠量といい、食事量といい、治癒能力といい、
症状的にはかなりの確率で『発症者』だな」
 送信完了メッセージを確認し、彼女はケータイの電話帳機能を呼び出した。そして、目的の名前を見つけると通話ボタンを押した。
コール音が数回鳴った後、相手の応答がある。
「私です、氷室です。……ええ。申し訳ありません。しかし、是非お耳に入れておきたいことがあるのです。
……実はつい先ほど、リカントロピーを発症している恐れのある生徒と接触したのです。……ええ、ほぼ間違いないと思います」
 冴子は脚を組み替え、机のほうを見る。
「……ええ、もちろんです。そちらもあまり無茶はなさいませんように。それではまた」
 電話を切ると、冴子は机の上に置かれた良希の書いた保健室利用カードを手に取った。

「三年二組、高峰良希……か」

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