第03話 「戦いの序曲」

              
「なんだよこれ……」
 側溝に吐瀉物をまき散らしている相棒に気を向けることもなく、呆然と突っ立っていた猪熊徳治の口から漏れた言葉がそれだった。
 刑事人生の長い徳治でも、さすがに気分が悪くなる亡骸だ。
「悪魔の仕業としか言えんな」
 目の前で死んでいる肉塊が女であろうということは、何となく予想ができた。
 ――スカートを履いているからである。
 まあ当然いろいろな人間がいるわけで、スカートを履いているからと言って女性であるとは断言できないのだが、ここ日本においては九割以上の確率で女性とみて間違いない。身につけているものは濃紺の女性用スーツらしく、営業の最中か、就職活動中に被害に遭ったようである。
 徳治は被害者の所持品と思われるカバンの中を探った。徳治の予想通り、持ち物の中には履歴書があった。
この女性は就職活動中に被害に遭ったらしい。
 履歴書の名前で見ても、履歴書に貼られた顔写真を見ても、やはり女性ということで間違いが無さそうだった。
ここに書かれた経歴が真実であれば、若い女性だった。
 遺体は履歴書を頼りに判別しなければならないほど、頭部と左右の腕部の損傷が激しかった。
 ――損傷が激しいなんて言い回しは、マスメディア向けのマイルドな表現でしかない。
 ぺっしゃんこになった左右の腕は骨が粉々に粉砕され、本当におせんべい状態だった、骨や筋繊維がズタズタになって皮膚だけで支持された
手というのは、信じられないほどびろんびろんに伸びてしまっていた。漫画のようにコミカルにさえ見えてしまう。
 頭部なんてもっと滑稽だった。もう頭蓋骨なんて、形の印象も何も残っておらず、頭があったあたりを中心に放射状にいろいろなものが
飛び散っていて、色味もバラエティに富んでいた。
「猟奇的だとか、狂気的だとか、そういう次元じゃねぇぞ」
 人の手や頭をどれだけ重い鈍器で殴っても、普通はこうはならない。自動車の重量にさえ耐えるアスファルト面までがへこんでしまっている。
建設重機でも使って、無理矢理押しつぶしたとしか言えない犯行の手口だった。
「おい、伏見。それ以上被害現場を汚すな」
 相棒はまだ側溝とにらめっこしてゲエゲエとやっていた。
 お昼に二人で入ったラーメン屋で、伏見秀俊はラーメンにごはんとギョーザが付いたランチセットを食べていたが、
もうすでに昼飯はすべて被害現場に撒き散らし終えて、そろそろ朝ご飯を撒き散らそうとしているところだった。
「鑑識に説教されるのは俺なんだぞッ!」
 徳治は秀俊の朝食のメニューに興味は無かった。徳治が大声を出したことで、秀俊の嘔吐感は、どうやら少し収まったようである。
「す、すみません。トクさん、俺、こんな残忍な犯行、許せません」
 彼は振り返らずに言った。
 猪熊徳治はトレンチコートの内ポケットからよれよれのたばこを取り出すと、口にくわえた。使い古されたオイルライターでそれに火をつけると、
彼は肺が煙で満たされるように大きく息を吸い込んだ。
 そしてそれを、ため息まじりで一気に吐き出す。
 徳治は疲れた声で言った。
「あのなあ、伏見、あんま気張りすぎるな。朝の件もこの件も、恐らくリカントロピー絡みだ。いくら前線の刑事だからって、まともに体を張って立ち向かうような性質のモンじゃねぇ」
 その言葉を聞き、秀俊はゆっくりと振り返った。顔色は嘔吐の後で青白いが、目には強い感情が見て取れた。
「まともに体を張って立ち向かうような性質のものじゃない? それはどういう意味です?」
 徳治はもう一度、たばこをくわえたまま深呼吸をした。
「言ったとおりの意味だよ。俺たちが命賭けて挑むようなヤマじゃないって言ったんだ」
 嘔吐の後のおぼつかいない足取りながら、秀俊は徳治の前まで歩み寄った。身長が徳治よりも頭ひとつ分高い秀俊は、見下ろすようなかたちで徳治に言葉を吐きかけた。
「撤回してください。これは、俺たちが命を賭けてでも解決すべきヤマです。でなければ、被害者たちが浮かばれません!」
「ケッ、ヒヨッコがエラそうな口叩きやがるぜ」
「撤回してください。俺は、リカントロピーの関わる事件で相棒を亡くしたあなただからこそ、相棒を組みたかった。念願が叶ったのに、
何ですかそれは。アンタはリカントロピーから背を向けるっていうんですか!」
 食ってかかる秀俊の顔に、徳治は煙草の煙を吹きつけた。
「お前に何がわかるってんだ。リカントロピー患者の恐ろしさは、実際に遭遇して戦った者にしかわからんよ」
 秀俊はきびすを返し、空を見上げる。
 徳治は黙って彼の後ろ姿を見つめていた。
 秀俊は、まるで涙を堪えているかのような、曇った声で言った。
「た、確かに自分は、リカントロピーと戦ったことはありません。ですが――」
 彼は振り返った。
 その表情を見て、徳治は眉をひそめる。
 秀俊は何かを言おうと口を開いた。が、軽く首を振って一言発しただけだった。
「……いえ」
 目の前の青年から目を離して、ベテラン刑事は自分の口元の煙草の火を見つめた。自分が息を吸い込むのに合わせ、それは赤い光を発する。
 煙草のぶすぶすというかすかな音に耳を傾けながら、彼は肺を紫煙で満たした。
 口から煙草を離し、彼はため息とともにそれを吐き出す。
 徳治は目の前で霧散してゆく煙を目を細めて見つめ、ぼそりと口を開いた。
「……勘違いすんな。別に俺はリカントロピーの捜査から手を引くとは言ってねぇ」
 徳治は、いつも持ち歩いている携帯灰皿に煙草の吸い殻をねじ込むと、大きくのびをした。そして踵を返す。
「どこへ行くんです!」
「事件現場は鑑識に任せりゃいい」
 スタスタと歩く徳治であったが、不意にぴたりと止まった。
「で……お前は俺と組んで続ける気か?」
 振り返りもせずに彼はたずねた。
「いけませんか?」
 それが秀俊の答えだった。
「好きにしろ」
 徳治は再び歩き始める。
 制服警官を残し、二人は事件現場を離れた。

 岸崎銀座街の雑踏と店舗の賑やかさが、今の良希には心地よかった。
「俺は何者だ……」
 そう自分に問いかけてみる。
 もちろん答えなど見えない。
 彼は不安だった。自分の体が、完全に自分の所有物でないような、そんな不気味な感覚だった。
 学校を飛び出し、何時間も彼はふらふらとさまよい歩いていた。
 太陽がもう間もなく沈むだろうというころに、彼は惨殺現場の前に立っていた。
 例の路地のには未だ立入禁止のテープが貼られていたが、すでに警察の姿は無い。無意識に、彼はテープをくぐって現場へと足を踏み入れる。
 細い路地を歩き、あの戦いのあった路地裏を目指した。
 路地のあちらこちらに血糊、警察のマーキングなどが散見された。しかし雑なものだなと思う。一人の人間が死んでも、
今のご時世、所詮この程度なのだ。
 こういった猟奇的な殺人は、ここ最近、世界的に日常的なで出来事となってしまっている。
 毎日、日本各地でも数件の惨殺事件が起こっており、それらのほとんどがリカントロピーとの関わりが指摘されていた。
リカントロピーを患って凶暴になった人間が、誰かを惨殺したというのである。
 だから今回のちづるの事件にしてもワンオブゼムであり、せいぜい地方版の紙面を賑わせる程度だろう。警察にしても同様で、
増え続けるリカントロピー患者と彼らが引き起こす猟奇事件に対し割り当てられる人手も十分とは言えず、捜査はどうしてもおざなりだ。
 良希は、自分がそのリカントロピーの仲間入りをしてしまったのかと思うと、気分が沈んだ。
 リカントロピー事件で患者が逮捕されると、通常、刑法によって裁かれるようなことはない。リカントロピーが病気であるためだ。治療法が見つかっておらず自然治癒もしない病と言われていて、人を傷つける危険性のあるリカントロピー患者は無期限で隔離施設に放り込まれる。
死ぬまで隔離施設で生活しろということである。
 また、逮捕を暴れると、警察は容赦なく患者を射殺する。患者に暴れられて何人もの人命が奪われるよりも、
患者一人を殺すのが最善の策であるというのが政府の見解ではあるが、隔離施設がどこも満杯で、できれば逮捕したくないというのが本音らしい。
 自分が無意識のうちに殺人を犯し、狂ったリカントロピー患者として射殺される運命にある。
 そう思うと打ちひしがれる思いだ。
 かどを曲がり、細い筋を抜けると、そこには夢に出てきた場所があった。ちづると魔物、変身する女が激しい戦いを繰り広げた場所だ。
 日が落ちて、夜のとばりが下りたその場所は、昨日見た夢とまるで同じだった。
 その場所に、今、良希がひとりでたたずんでいた。
 ……いや、もう一人、いる。あの激しい戦いで獣に吹き飛ばされたちづるがうずくまっていた場所に、岸崎高校の制服を着た女がうずくまるようにして座っていた。髪は、ちづるのように黒く長い。
 ――下条ちづるなのか?
 良希の気配に気づき、女は頭を少し動かした。長い前髪のせいで表情は読み取れないが、じっと良希のほうを見据えているように見える。
 彼女はとても億劫そうな動きでのろのろと立ち上がった。まるでよみがえる死人のようだった。
 良希は一歩、後ずさった。
 女は両手をゆっくりとした動作で大きく広げた。
 見覚えのある光景だった。
「我が前にラファエル……」
 彼女の口から言葉が発せられた。
「……そ、そんな」
「我が後ろにガブリエル……」
 獣が唸るような発音で彼女は続ける。
「我が馬手(めて)にミカエル……」
 良希はもう一歩、後ろへと下がる。
「お前、死んだんじゃ無かったのかよ」
 良希は気が動転していた。記憶にあった場所に足を運んでみたら、死んだはずの女が夢の中で使っていた技を、自分に向けて使おうとしている。
平常心でいられるわけが無かった。
「我が弓手(ゆんで)にウリエル……」
 ちづるの亡霊はゆっくりと、だが確実に詠唱を続けた。
「我が周囲には五芒星が燃え、我が頭上には六芒星が輝く」
 空気が張り詰めるのがわかった。女の髪がはためいた。強烈な力が彼女からほとばしっていた。
「やめてくれ下条ッ! 俺はそんなつもりじゃなかったんだッ!」
 良希は叫んだ。が、女に動じる様子はない。
 強烈な力をまとった女を前に、良希は震えていた。もちろん、武者震いではない。
「アテ・マルクト・ヴェゲヴラー・ヴェゲドラー……」
 彼女は右手を前にかざした。
「ま、マズイッ!」
 良希は知っている。夢の中で同じ経験をした。だからわかる。このあと何が起こるのか彼は知っている。
「ルオーラム・エイメンッ!」
 ちづるの亡霊が叫んだのと同時に、彼女の前に出した手から力がほとばしった。
 強烈な閃光弾が良希に襲いかかる。
(ダメだやられる)
 しかし、良希の思いとは関係なく、体は反射的に動いていた。
 人間の反応とは思えない、驚異的なレスポンスである。
 光の速度で襲いかかる閃光弾を、彼は身を翻してかわしていた。
「かわしたッ?」
 良希本人が驚きの声をあげた。
「ルオーラム・エイメンッ!」
 続けざまに第二波が来る。
 考える間もなく、彼の体は反応していた。
 頭の横を閃光弾が通過し、背後のゴミだめを吹き飛ばす。
(これじゃあきりがないッ!)
 苛立ちを感じた瞬間に良希はもう次の動作をしていた。
 ――すなわち、下条ちづるの亡霊と距離を詰めるということ。
「ルオーラム・エイメンッ!」
 閃光弾を発する右手は、3発目の発射の寸前に良希に掴まれていた。目標無く発射された光弾が虚空に吸い込まれる。
「戦う気はないんだッ!」
「チッ!」
 女が舌打ちし、左手で良希の手を払いのけた。
「殺しておいてよく言う」
 女が叫んだ。
「俺の意志じゃないッ!」
「自分の意志でなく人を殺めるなら、さらにタチが悪い」
 彼女は良希から間合いをとって、スカートを少しめくりあげて太もものホルダーからナイフを抜いた。
 光の速度をかわした良希にとって、ナイフなど恐ろしくも何とも無かった。
「やめろ、これ以上続けたら殺してしまう」
 言いながら、一度死んだ相手に「殺す」という表現も変だなと良希は思った。
「殺せるものなら殺してみるがいいわ」
 言うのが早いか、女はナイフで自分の左手首を勢いよく切った。
 勝てないことを知ったのか、女は自分の武器で自分自身を傷つけた。
「なんてことを……」
 女の左手首からは、鼓動に合わせるようにビュッビュッビュッと鮮血が勢いよく吹き出す。
 女は不気味な笑みを浮かべ、良希を睨みつけていた。
 ぱっくりと割れた手首を見ると、止血して出血がとまるとは思えなかった。少なくとも、そういった知識のない良希にはそう思えた。
「お前は何なんだよ……何でそんなことをするんだ」
 みるみるうちに、血だまりが広がってゆく。

 ……カラン

女はナイフを取り落とすと、ナイフが足下で一瞬踊った。
 ちづるの亡霊は左手首を右手で押さえ、力なくその場にへたり込む。失血で、立っていられないらしかった。
「しっかりしろ」
 良希は駆け寄り、がっくりと頭を垂れている女の前でかがんだ。
 駆け寄ってはみたものの、どうすれば女を助けられるのか良希には考えもつかなかった。
「おい」
 女の肩を掴む。
 女が頭を上げた。
 クラスメイトという以上の親交は無かったため、ちづるの顔を正確に把握しているわけではなかったが、
近距離で見る青ざめた顔は、どこか印象が違った。
 そのちづるの亡霊が、不意に、不適な笑みを浮かべた。
「死ねッ!」
 その瞬間、激痛が走った。
 鋭利に尖った赤黒いモノが、良希の脇腹を背後から貫いた。
 良希が振り返ると、女が作った血の海からそれは伸びていた。まるで、血が変形して襲いかかったように見える。
「チッ!」
 女の舌打ちに呼応するように、良希を貫いたモノは血の海へと戻った。
そして次の瞬間、それは再び尖ったエストックのようになって良希に牙を剥いた。
 またも良希は考えるよりも早く身を翻していた。血のエストックは虚空を貫いた。
「う……ぐ、かはッ」
 とっさに飛び退いたのは良かったが、身をよじったために脇腹の傷に激痛が走り、血が噴き出した。思わずその場にひざまずく。
 女は立ち上がると、左手首を押さえていた手をのけた。傷口はすでにふさがっていた。
 彼女は歩いて自分の血だまりの前まで移動すると、そこにかがみこんで右手をそれにひたした。
 血が絡みつくように彼女の腕に巻き付いてゆく。
 すべての血がアスファルトから吸い上げられたのを見て、彼女は立ち上がる。彼女は右腕をひと振りした。
腕に絡みついていた血が、手の延長上に剣の形を形成した。
「もう一度、言ってやろうか」
 彼女は口角をあげた。
「殺せるものなら殺してみるがいいわ」
 片膝を地面についたまま、良希は苦痛に耐えながら口を開いた。
「何者なんだ……お前」
「あたしは京極(きょうごく)せつな……下条ちづるを継ぐ者よ」
 京極せつなと名乗った女は、自らの血で武器を形成した右腕を振り上げた。

 広瀬優作はため息をついた。
 時刻はもう深夜1時を回っている。
 川上咲子と組んで行動している時間はそれなりにカメラマンとしての自覚も湧くが、映画や小説みたいにカメラマン業にのみ専念させてくれるほど
『夕刊ヒノモト』は優しくない。
 彼の目の前のパソコンのディスプレイには、未確認飛行物体の映った荒い写真が表示されていた。が、よく見ればただ写真が荒いだけではなく、
未確認飛行物体の周りには通常の撮影では写り得ない不自然なジャギがあった。
 ――合成写真である。
 彼は特集記事で使う写真を準備中だった。いくつかの画像をそれっぽく合成して、手ブレ感を演出し、
さも衝撃の瞬間を捕らえたような画像に仕上げていく。
 が、作っていても、なぜ未確認飛行物体はいわゆる「空飛ぶ円盤」型をしているのだろうかと考えてしまう。航空力学もへったくれもない形だ。
いや、航空力学は使わないで飛行しているのか? 引力とか揚力とか無視か? 移動はどうする?
 彼はPC用のタブレットペンをほうり投げた。
「やめだ、やめだ」
 大きくノビをする。
 途中の画像データを保存し、パソコンの電源を落とすと彼は鍵を閉めていそいそとオフィスを出た。
 JR岸崎駅前にあるビルから出て、駐車場に駐めてある自分のおんぼろ中古バイクにまたがると、彼は家路についた。
「……」
 この軽い排気音は何とかならないものだろうかといつも思う。もっといいバイクに買い換えたいが、今の安月給ではとても無理だった。
 暗い夜道を走るには頼りない弱々しいヘッドライトを頼りに、街の中心部を外れて湾岸道路を走る。
 この道は優作のお気に入りだった。狭苦しい街中と違って、とても開放感がある。それに車もこの時間はほとんど走っていない。
あいにくの曇天で、今日の水面はあまり煌めかなかったが、それでもやはり、心地よい。
 彼は無意識のうちにスピードを上げていた。いつもの慣れた道だったから、油断があった。
 二つの人影が路面に飛び出してきたのが視界に入った時には、もうどうしようもなかった。 
優作が、自分のバイクがとび出してきたうちの一人をはねたと思った瞬間、信じられないことが起こった。相手はバイクを受け止めたのである。
 しかし、優作は残念ながら慣性の法則に逆らえずに空中に投げ出されてしまった。スピードがあったから、映画のアクションでもここまで大げさな吹っ飛び方はしないだろうと思えるほどの飛び方だ。
(──これは死ぬな)
 優作は次の瞬間、アスファルトに全身を強打し、体中の骨を骨折してしま……うだろうと思った。
「とうッ!」
 何者かの声が聞こえた。そして何かが自分の体を覆った。複雑な回転がかかったのか、重力方向がめまぐるしく変わる。優作には何が起こったかわからなかったが、アスファルトに激突することなく空中遊泳が終了したことだけはわかった。
「大丈夫ですか?」
 優作は自分を抱えている者の声を聞いた。女性の声だ。目を開けると、自分を抱えているのが特撮の覆面ヒーローであるのがわかる。
いや、覆面ヒロインと言うべきか。
(……ああ、やっぱ死んだな)
 自分の目の前に覆面のヒロインが現れるなんて、まあ、何というか、現実味が無い。優作は自分が死んだんだなと悟った。
「こら、しっかりしなさい。立てるわね」
 彼女の胸の中で気絶しようとしていた優作は、無理矢理立たされた。優作にはまだちゃんと足があった。どうやら、まだ死んではいないらしい。
 彼にも何となくわかってきた。どうやら、空中にぶっ飛ばされた優作を、この特撮ヒロインがキャッチして安全に着地してくれたらしい。
(これが飛び出してきた人影の片割れだとすると、もう一人は……)
 優作は絶句した。恐ろしい握力でバイクを掴んでいるもう一人は……昆虫のような外骨格を持った怪人だった。
 優作は声も出なかった。『夕刊ヒノモト』のバカバカしい特集記事ですら、もう少しは現実味を大切にする。
夜の人気のない道路で正義のヒロインと昆虫怪人が戦っている特集記事をやろうなんて言ったら、きっと編集長に頭を叩かれるに違いない。
 怪人の驚異的な握力で受け止められたバイクのタイヤの回転が止まった。
完全にバイクの勢いを殺した昆虫怪人は、バイクを路肩に軽々と投げ捨てた。
 ――とても着ぐるみ怪人に真似のできる芸当ではない。
「危ないから、下がって」
 自分をかばうように前に出るヒロインの後ろ姿を、優作は見つめた。全身が金属装甲に堅められたタイトな戦闘装備であるがゆえ、
女性らしいボディラインが確認できる。
「そこの男、俺にバイクをぶつけるなんていい度胸だ。この女を屠ったら次はお前だからな」
 昆虫怪人が言った。
「怪人、お前はこの私だ。とうッ!」
 変身ヒロインが虚空を舞った。
 優作にはわかった。怪人の注意が優作にではなく、自分に向けられるように覆面のヒロインは立ち回っているのだ。
 だが、軌道を変えられない空中への跳躍は迂闊だったようである。怪人は先読みで跳躍し、強烈な蹴りをヒロインの腹部にめり込ませた。
「甘いんだよ」
「計算済みッ!」
 彼女はその蹴りを掴むと、強引に絡め取って空中で体勢を変え、パイルドライバーに移行する。
「しまったッ!」
 十メートルほども落差のあるパイルドライバーである。生身の人間なら確実に命を落とすに違いない。あるいは、この怪人でも……。

……ズドンッ

 落下後、バク宙二回で後方に下がったヒロインは再び戦闘体勢を整えた。
 頭から落下した怪人は、死なないまでもさすがにこたえたようだった。よろよろとおぼつかない足取りで立ち上がる。
「サイバーマックスパワーッ!」
 彼女が叫んだ。するとその叫びに呼応するかのように、彼女の戦闘装備の腰ベルトと手足のベルトの宝玉が光を放った。
「トドメだ、覚悟ッ!」
 彼女は信じられない力で路面を蹴った。さきほどの大跳躍よりも強烈な弾みをつけ、正義のヒロインは怪物めがけて飛び込む。
 彼女が上体を捻ると、右の拳の宝玉がより一層煌めいた。
「サイバーパーンチッ!」
 彼女の全体重と、スーツの重量、足の宝玉の力で得た跳躍力、手の宝玉の力で得たパンチ力、
これらすべてが一体となって昆虫怪人に襲いかかる。
「ぐわぁぁぁぁッ!」
 バイクを受け止めた昆虫怪人も、このヒロインの強烈な一撃には耐えきれなかった。怪人は断末魔の叫び声をあげ、身体を四散させた。
 飛び散った肉塊は特撮モノのように爆発こそしなかったが、シュウシュウと音を立ててガスを発し、灰化してゆく。
「……あッ」
 一連の戦いを眺めていて、今になってようやく広瀬優作は自分がカメラマンであることを思い出した。しかし、カメラはオフィスのデスクの上だ。
「危なかったですが、もう大丈夫です」
 戦いを終えた女戦士が優作に向かって言った。
「あ、あなたは?」
「私はサイバーレナ、正義の使者です」
 正義のヒロインは言った。
「では、私はこれで」
「あ、ちょっと!」
 サイバーレナは身軽すぎる跳躍を繰り返し、夜の闇に消えていった。
 そこに残されたのは、灰となった怪人と、スクープを取り逃したカメラマンと、彼のさらに見栄えの悪くなったポンコツバイクだけだった。


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